top of page

Blog

Search
  • Writer's pictureVille Hiltula

日本タンゴ・アカデミーより、雑誌「タンゲアンド・エン・ハポン」第57号 (2023) が発行され、ヴィッレ・ヒルトゥラのタンゴ人生について、土方孝人さんが寄稿くださいました!


日本タンゴ・アカデミーより、雑誌「タンゲアンド・エン・ハポン」第57号 (2023) が発行され、ヴィッレ・ヒルトゥラのタンゴ人生について、土方孝人さんが寄稿くださいました!ありがとうございます‼︎


ヴィッレ・ヒルトゥラのタンゴ半生

〜フィンランド、オランダ、アルゼンチン、そして日本    


土方孝人 ( 豊田市 / メキシコ在住 )


2022年6月に開催された「東京タンゴ祭」に初出演したグループが、ヴィッレ・ヒルトゥラ・タンゴ・クァルテート(Ville Hiltula Tango Cuarteto)で有った。彼らの演奏は非常に良い評価を得ていた。ちなみに共演はピアノ青木菜穂子、バイオリン吉田篤、ベース田中伸司で有る。彼らは東京タンゴ祭の常連と言って良いメンバーだ。そこで聞かれた方の中にも、何故、フィンランド人のヴィッレがこれだけアルゼンチンタンゴに精通しているのかに興味を持たれたかと思う。ついてはここに標題通り「ヴィッレ・ヒルトゥラのタンゴ半生」を紹介したい。


【第1部】フィンランド、幼少期から~ミュージシャンとしての芽生え


ヴィッレは1977年10月24日にフィンランドの Ylivieskaと言う町に生まれた現在、45歳のバンドネオン奏者で有る。日本のタンゴ奏者で言うとオルケスタ・アウロラのメンバーとほぼ同じ世代となる。Ylivieska はフィンランドの首都、ヘルシンキから車で約6時間の町で有る。両親と兄、弟、妹との4人兄弟の2番目に生まれた。家族の中で、ヴィッレが唯一のプロの音楽家で有った。


ヴィッレが音楽に興味を持ったのは、9才の時に従兄弟が弾くアコーディオンを聴いたからで有った。アコーディオンはフィンランドの民族音楽に置いて非常に重要な楽器でも有り、またフィンランドはクラシックの現代音楽アコーディオンのパイオニアの国だったために、フィンランドの音楽好きがアコーディオンに興味を持つ事は、必ずしも珍しい事では無かった。ヴィッレは地元の音楽学校でアコーディオンを習った上で、本格的に音楽を勉強するために1992年14歳の時に首都ヘルシンキのシベリウス音楽アカデミーのユースコースに通い始めた。(シベリウスはフィンランドの国民的英雄であるクラシック作曲家で日本でも大人気)実はシベリウス音楽アカデミーのアコーディオン科の創設者のMatti Rantanenはヴィッレの父親の従兄弟で有った。なのでヴィッレは彼の影響も有り、フィンランドの民族音楽よりもクラシックの現代音楽アコーディオンに興味を持つ様になった。それと同時にピアソラの音楽にも接する事になった。というのはアコーディオンの世界では、その頃、既にピアソラは人気の作曲家になっていた。ヴィッレは多くのアコーディオンの巨匠のマスタークラスを受講した。その中にはリシャール・ガリアーノのクラスも有った。彼はピアソラから直接、薫陶を受けた事でも有名だ。


18歳の時に高校を卒業し、ヘルシンキへ居を移した。1997年、19歳でヘルシンキ音楽院へ入学した。そこで、もう一人彼の人生に影響を与えた音楽家と出会った。ヤンネ舘野で有る。ヤンネの父親は、クラシック音楽ファンならご存知のピアニストの舘野泉で有る。北欧系のピアノ音楽を得意とする舘野泉は、シベリウス音楽アカデミーの声楽科の先生で有ったフィンランド女性と結婚して、ヤンネが生まれた。現在、ヤンネは横浜に居を構え、クラシックの山形交響楽団の第2バイオリンとして活躍する一方、タンゴの方でも、加藤真由美カルテートと共演したり、ヴィッレと様々な音楽プロジェクトで共演したりと熱心に活動している。つまり2人はフィンランド人の血の流れを汲む同士としてだけではなく、19歳の時の同級生で有り、親友でも有るという事だった。


さて、アコーディオン奏者として、ピアソラの音楽とも接したヴィッレは、2年間ヘルシンキ音楽院でアコーディオンを勉強したあと、1999年シベリウス音楽アカデミーに入学しソリストとして修行し、ピアソラだけでなくアルゼンチンタンゴに興味を持って行く様になった。そんなある時に大きな転機がヴィッレに訪れた。ロッテルダム音楽院タンゴ科への交換留学生のオファーだった。


【第2部】オランダ、バンドネオンとの出会い、タンゲーロとしての羽ばたき


2002年、ヴィッレ24歳の時に、当初4ヶ月間の交換留学生として、ロッテルダム音楽院タンゴ科に留学した。この留学は2006年まで延長された。同音楽院のタンゴ科はセステート・カンジェンゲのリーダー、オランダ人のカレル・クラインエーホフと同じく第2パンドネオンのレオ・ヴェルヴェルデが創設し、セステート・カンジェンゲのメンバーもそれぞれの楽器の講師についた。そして彼らはオスバルド・プグリエーセを同音楽院の芸術監督に迎えた。


なのでプグリエーセは当時オランダに単身だけでなく、自分のオケのメンバーも連れて何度も訪問していた。お気付きの方も居られる通り、プグリエーセとピアソラの共演コンサートで後にライブ録音が発売された"Finally Together"はオランダ・アムステルダムでの演奏だった。これもプグリエーセが何度もオランダを訪れていたために、可能になったと推測される。


一方、セステート・カンジェンゲは、1988年に設立され、世界トップクラスのプグリエーセ・スタイルのバンドと呼ばれ、アルゼンチンでのプグリエーセへの追悼イベントで何度か招聘されている。またセステート・カンジェンゲは、もう一つアルゼンチンとオランダとの架け橋になっていると言われるエピソードが有る。リーダーで、第1バンドネオン奏者のカレル・クラインエーホフがオランダ王室に嫁入りするマキシマ王妃の結婚式の催しの一部で、"Adios Nonino”)を演奏したからで有る。実はマキシマ王妃は、アルゼンチンの一般女性で有った。なので、オランダ王室に入ることは、正にアルゼンチンの故郷の両親に別れを告げる気持ちで有った。その気持ちを代弁するかの様に、クラインエーホフの長いバンドネオン・ソロで始まる”Adios Nonino"が演奏される。バックにクラシックのオーケストラが控え、美しい音色で支える。この様に感動したマキシマ王妃が思わず涙を流す。労わる様に見つめるウィレム皇太子。この様子はYouTubeでも観ることが出来る。この名演によって、カレル・クラインエーホフは、自分の率いるセステート・カンジェンゲと共に何度もオランダ王室のイベントに出演した。後から参画したヴィッレも2回、オランダ王室の前で演奏を行う機会を得たという。またロッテルダム音楽院にはオルケスタ・ティピカが有り、ヴィッレもそのバンドネオニストタとして様々な楽団のスタイルを学ぶ事が出来た。


さてヴィッレのセステート・カンジェンゲへの加入は、2005年になる。同楽団の第2バンドネオンのロッコ・ボネスの退団の意向を踏まえ、リーダーのクラインエーホフは、代わりとなる第2バンドネオン奏者を探していた。そこで早速、ロッテルダム音楽院タンゴ科の教授を務めていたレオ・ヴェルヴェルデに相談した所、ヴィッレが推薦され、クラインエーホフのオーディションを受ける事になった。結果、見事ヴィッレは合格した。しかし大変だったのはこれからだった。何せ年間100回のコンサートをこなす人気楽団に入団したのだから、早速本番を連続で行って行く事になった。そのため、その頃のヴィッレは、日に10時間以上の練習を行うことも度々あったという。やはりフィンランド人特有の我慢強さでこの苦難を乗り越えて誰もが認めるトップバンドネオン奏者になった。


またロッテルダム音楽院では、幅広く古典タンゴを学び、セステート・カンジェンゲでは、プグリエーセにのめり込んで行った。一方ロッテルダム音楽院は、プグリエーセの死後、パリからアルゼンチン人ピアニストで作曲家のグスタボ・ベイテルマンを後任の芸術監督として招聘した。ベイテルマンは同じくフランスへ亡命したフアン・ホセ・モサリーニと共にモダンタンゴのトリオを編成し、数々の録音を残している。


この様にヨーロッパにはモサリーニが教授を務めたパリ音楽院のバンドネオン科とベイテルマンが芸術監督を務めたロッテルダム音楽院のタンゴ学科と2つのタンゴ学派が有る事が理解出来る。日本人タンゴ・ミュージシャンの早川純が留学した事で、日本ではパリ音楽院が有名だが、プグリエーセの遺志を継いでベイテルマンが毎月パリから教えに来たロッテルダム音楽院タンゴ科の事も重要なタンゴ教育機関として認識しなければならない。ここではベイテルマンの下でヴィッレはアルゼンチンタンゴ音楽を研究し、オールマイティに古典タンゴを演奏しながら本格的なプグリエーセ・スタイルにも取り組んで来た。


学生を終えた後も、ヴィッレはロッテルダムにとどまり、国際的なプロの奏者として活動し、様々なプロジェクトに参加し招聘された。例えば、ソロ活動としてピアソラのオペリータ「ブエノスアイレスのマリア」のソリストを3回務めた。2005年のベルギーの音楽アンサンブルでの共演、2013年のアイルランドのコーク歌劇場での共演、そして2018年ドイツのハレ歌劇場での共演等である。そして2015年、ヴィッレは、より自由に自分自身のタンゴプロジェクトを追求するため、セステート・カンジェンゲを退団した。彼の在籍した2005年〜2015年の10年間で2つのアルバムへの録音が実現した。 


1) "Tango Heroes" 2008年録音 

2) "Compassion" 2010年録音


ヴィッレの退団により同楽団もセステートでの活動を終え、異なるユニットでの活動に移って行った。


【第3部】アルゼンチン、ブエノスアイレス・タンゴ界との接点、そしてタンゲーロとしての躍進


ヴィッレがセステート・カンジェンゲに入団した2ヶ月後の2005年12月に同楽団のブエノスアイレスツアーが実施された。これはオスバルド・プグリエーセの生誕100年コンサートがサンマルティン文化センターで行われ、ここでロベルト・アルバレス率いるコロール・タンゴとの共演をプグリエーセの未亡人のリディア夫人の臨席の元で行われた記念すべき物であった。


この時は他にもセステート・カンジェンゲはアルベアール劇場に出演し、またオラシオ・フェレールの招聘で「カサ・デル・タンゴ」にも出演した。そして同楽団のリーダー、カレル・クライエーンホフのアルゼンチン国勲章の授与セレモニーが国会議事堂で行われ、そこでも演奏が行われた。さらに、コリエンテス通りに大きな屋外舞台が設置され、オスバルド・プグリエーセの娘、ベバ率いる楽団とともにコンサートを行なった。更に「コンフィテリア・イデアル」や「ラ・ビルータ」と言う名門ミロンガにも出演し、ブエノスアイレスで同楽団は有名になった。


翌2006年2〜3月にかけて、ヴィッレはロッテルダム音楽オルケスタ・ティピカで第7回ブエノスアイレス・タンゴフェスティバルにも出演した。この様に連続してオランダ系のタンゴ楽団がブエノスアイレスを訪問したので、この頃のアルゼンチンでは、ちょっとしたオランダ・ブームが起きていたそうだ。


【第4部】日本、ヴィッレの新たなタンゴ人生の始まり


ヴィッレの初来日は2008年に遡る。日本に拠点を移していた親友のヤンネ舘野を訪ねて来日したヴィッレは、この時に日本に物凄く良い印象を持ち、再び日本に来たいと強く思った。


2016年12月には小松亮太主催の「バンドネオンワールドプレーヤーズ2016」が北千住のシアター1010で開催され、臨時編成のオルケスタ・ティピカのバンドネオンに第1小松亮太、第2にヴィッレ、第3に韓国人のコー・サンジ、第4に北村聡と豪華なメンバーでバンドネオン界の重要なグローバルプレーヤーとしてヴィッレは広く紹介されていた。ちなみに同じく2016年2月にはセステート・カンジェンゲのリーダー、カレル・クライエーンホフもピアノの鬼才フアン・パブロ・デュバルと雑司ヶ谷の「エルチョクロ」に出演していた。どうやら「エルチョクロ」も世界のタンゴ・ライブハウスのネットワークに掲載されているらしく、この様な大物海外ミュージシャンの出演がある。


そして、ヴィッレにとって運命の出会いが有った。2018年に神戸のミロンガ、「北野サーカス」を訪れた際に未来の奥様、裕美子さんに一目惚れして、めでたく2019年に結婚しヴィッレは神戸に生活の拠点を移した。


ヴィッレは各地で精力的に音楽活動を行っており、東京をベースとした「ヴィッレ・ヒルトゥラ ・タンゴ・クァルテート」で数々のコンサート共に、人気のタンゴ・ライブハウスの「エルチョクロ」には今や常連メンバーとして出演している。また東海や関西でも、数々のミュージシャンとグループを結成している。例えば三重出身のピアニスト矢田麻子とは、名古屋・三重を始め、関西や東京でも度々共演。関西では、ピアノの麓朝光やベースの後藤雅史、バイオリンの高木和弘とともに「ロクラ・タンゲーラ」を結成。また、クラシック界で活躍する、バイオリニスト谷本華子、ピアニスト堤聡子とともにトリオを結成したほか、バイオリンの高木和弘やヤンネ舘野らの弦楽四重奏とも「Ville Hiltula con salon de sasanoha」として活動を開始し、クラシックとタンゴ両方の愛好家を魅了している。そして言わずと知れたヤンネ舘野とは、2022年、山形で初めてデュオでのコンサートを行い、タンゴ、クラシック、映画音楽など様々なジャンルを演奏した。今後、全国各地での演奏も予定している。


つまり関東・関西・東海の各地に共演相手を持ち、ヴィッレ一人があちらこちらに精力的に移動するという日本人のミュージシャンよりも活動的なワールドプレーヤーになりつつ有ると言える。なので、ヴィッレの夢はかってヨーロッパでタンゴ・ミュージシャンとして研鑽した際に縁の有ったグスタボ・ベイテルマンや歌手のOmar Molloと言ったワールドプレーヤーを日本に招聘し、日本人ミュージシャンも含めたコンサートを行って、ヨーロッパにおけるアルゼンチンタンゴの世界を日本に紹介したいと考えている。


最後に、細やかなエピソードの紹介でこの原稿を終わらせたい。実は11月17日(木)に行われたハヤカワ・テルージ・トリオの大阪公演のお客様予約名簿に同業者のヴィッレの名前が有った事に早川純は驚いていた。。実は早川はピアニストの人選をベースのレオナルド・テルージに依頼していた。テルージ推薦のピアニストとして出演したのが、ベルギー人のイーボ・デ・グリーフで有った。実は、イーボとヴィッレは、ロッテルダム音楽院のタンゴ科の同期で有り、ロッテルダム音楽院オルケスタ・ティピカの共演仲間として、2006年に一緒にブエノスアイレスへ演奏旅行をした間柄で有った。しかしヴィッレが拠点を日本に移し、コロナ禍の始まりも有り、何年も会えなかった友人でも有ったとのこと。つまり、ベルギー人のピアニストのイーボ・デ・グリーフとフィンランド人のバンドネオン奏者のヴィッレ・ヒルトゥラは、日本の大阪で何年ぶりかの再会を果たした訳だ。この様にアルゼンチンタンゴの世界は、それだけグローバルな舞台になって居ると認識させられた。


益々、今後のタンゴを巡るグローバル交流が楽しみになって来た。



 


Subscribe to Ville´s Newsletter!

Stay informed about Ville´s news and upcoming performances:

27 views0 comments

Comments


bottom of page